長男くんの不登校とひきこもりの話、続けますね。
長男くんは、とても「よい子」だったと思います。
感受性が強く、小さい頃から人のいうことをよく聞く子供でした。
「空気を読む」という言葉がありますが、少し読み過ぎるくらい、周りの雰囲気を大切にする子供だったように思います。
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妻ともよく話すのですが、長男くんにはこれといった「反抗期」がありませんでした。
勉強も好きな方で、好きだから成績も良く、何の問題も無いまま、中学・高校へと進学していた感じがします。
「オレ、平和主義だから」と彼が言うのをよく聞きました。
だからなのかも知れませんが、自分を抑圧してしまってガマンしてしまうことが多かったのかも知れません。
彼は、学校では「No」を言えないようでした。
学校行事や部活などで頼まれて、複数の責任者のようなことを掛け持ちしていたことがわかりました。
そして、それらのことにだんだんと耐えられなくなっていた、と打ち明けていました。
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「よい子」であったことで、ガマンしていた気持ちが大き過ぎて、その気持ちを反抗期に解放することもできず、限界を超えてしまったのかも知れない。
彼の不登校や引きこもりには、そういう側面もあったのかも知れません。
また、「よい子」であってほしい、そんな気持ちが僕ら親側にもあったのかも知れません。
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悩んでいたときに、図書館で「『よい子』の悲劇」という本を見つけました。
読んでみて、親子関係で考えさせられることがたくさん書いてありました。
心が軽くなる部分もあったし、「ハッ」とさせられる新しい発見もありました。
少し長くなりますが、引用してみます。
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生身の人間関係は、「喧嘩して仲直り」「せめぎ合って、折り合って、お互いさま」という日常のやりとりの中でしか生まれてきません。その相手はクラスメイトでも先生でも、あるいは近所の人であってもいいのですが、やはり人と人のかかわり合いの原点は親子関係ではないでしょうか。それは、親子という「しがらみ」においては、お互いに傷ついても癒される場が、少なくとも他人以上にあるからです。
(中略)
親子関係は、”逃げられない”関係だと私は考えています。クラスメイトや先生は、進学すればそこで関係性を絶つことができます。言い換えれば、”納期”があるのです。でも、親子関係に”納期”はありません。生涯、続くのです。だからこそ、親子は人間関係の原点になります。そして、感情を抑圧している「よい子」の仮面を取り外していくには、親子が手間をかけて生身の人間関係を築いていくこと以外にありません。
みなさんのご家族が、お互いに弱音や愚痴を吐ける間柄になっているでしょうか。親が、格好悪い自分、弱い自分をさらけ出していけば、子どもは「みんな弱いんだ」「迷ってもいいんだ」と安心します。そして、子どもが自分の弱い部分をさらけ出し、それを親が受け入れてくれることを知れば、子どもは感情を抑圧することをしなくなります。手間ひまかけたコミュニケーションがあれば、子どもは心にマグマをためずに済み、素直になる(等身大の自分を肯定する)ことを見失った「よい子」をやめられるのです。
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自分の子供が不登校・ひきこもり・心の病になると、夫婦の関係に亀裂が入ることがあります
上記の記事で書きましたが、夫婦関係が悪くなったことがありました。
それについての対処も書かれていました。
「よい子」の悲劇を未然に防ぐには、まずは親から変わることです。「よい親」であることをやめて、ずっこけ母さん、ぐうたら父さんでいることです。もちろん、そのような生活態度を奨励してるわけではありません。ストイックにならないで、自分の弱さや脆さを受け入れて、”未完”な姿を正直に隠さないで見せていこうということです。それが等身大に生きるということです。
(中略)
たとえ夫婦喧嘩をしても、関係性を継続している中では「喧嘩して仲直り」ができます。子どもは親のそんな姿を見て、人間関係の基本を学んでいくのではないでしょうか。普段からこうした”せめぎ合い”がなければ、子どもは”折り合って、お互いさま”を理解することができません。
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反抗期についても。
子どもには、反抗期と呼ばれる時期があります。主体性、社会性を身につける「第一次反抗期」、一人の人間としてどう生きていくかを考えるようになる「第二次反抗期」。いわゆる思春期です。
これらは、社会に漕ぎ出していくための重要なステップです。しかし”私らしさ”を大事にするあまり、子どもは反抗する必要のない環境で育ってきてしまいました。「よい子」は、「よい子」のまま成長していくのです。そのことが社会に出るときに顕著になって、遅すぎる思春期が訪れたりします。
不登校になり、家庭内暴力を繰り返し、引きこもって親子関係を築いていくことのできない子どもは「よい子」の悲劇です。しかし、個性尊重の流れの中で”せめぎ合う”ことなく、「よい子」の仮面を外す機会を与えられずに成長した子どもも、また「よい子」の悲劇なのです。社会適応できない子どもの悲劇と言っていいかもしれません。
(中略)
たとえ大人と言われる年齢に達したとしても、「よい子」は「よい子」のまま、人の中で漂い続けなければなりません。それはとても苦しいものです。
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僕が一番「ドキッ」とした部分です。
「犯人探し」からは何も生まれない
子どもが問題行動を起こすようになると、親はとまどい、そうなってしまった原因を探ろうとします。これまで「よい子」だった子どもほど、そこにギャップが生まれてきますから、親はますます気が動転してしまいます。
”企業戦士”のお父さんは、妻にきっとこういうのではないでしょうか。
「お前がきちんと教育していないからこうなったんだ」
子どもの面倒をずっと見てきたお母さんも、黙ってはいません。
「そんなこと言ったって、あなたに相談しても何も答えてくれなかったじゃない。こうなったのは、あなたのせいでもあるのよ」
こうなると、夫婦の話し合いは泥沼化していきます。(中略)
子どもが何かしらの問題行動を起こしたとき、親は不安のあまり、その原因を探り犯人をあぶり出そうとしてしまいます。
でも、犯人探しからは何も生まれません。犯人など、どこにもいないのです。
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長くなっちゃいました。
最後に、エピローグにあった一番感銘を受けた言葉を。
「よい子」が「よい子」の鎧を脱ぐためには、まず親が「よい父」「よい母」であることをやめることです。
正しいか正しくないかを教えることが子育てのすべてではありません。まして叱咤激励を繰り返すことが子育てなのでもありません。子どもの気持ちを受け止めて、とまどい、迷い、悩む親でいいのです。その積み重ねで一緒に成長していく。それが、親子関係においては何よりも尊いことではないでしょうか。
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