どうして会社員は生きづらいのか?

スポンサーリンク

(前回からの続きです)

「日本人は会社が大嫌いだった」

「日本人は仕事が好き」「日本人はよく働く」「日本人は何かを犠牲にしてまで会社で仕事をする」
こんなイメージが海外の人にも日本人自身にも根付いていたと思います。

そう思われている(思われていた)のはナゼか?また、実はそうではなくなった(なかった)のはナゼなのか?

「24時間戦えますか」などの言葉に代表されるように、日本人はよく働き、会社は成長し、高度成長後期には”JAPAN AS No.1”と称されるまでになりました。

僕が就職した頃にバブルが弾けました。
会社の先輩たちが「最近、会社がオイシクなくなったな」と言い合っていたのをよく覚えています。

昨日紹介した橘玲さんの著書に 「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 という本があります。

この本の第四章「幸せになれるか?」から抜粋します

 高度成長期のサラリーマンは、昇給や昇進、退職金や企業年金、接待交際費や福利厚生費などのフリンジベネフィット(現物給付)によって大嫌いな仕事になんとか耐えていた。ところが「失われた20年」でそうしたポジティブな側面(希望)があらかた失われてしまうと、後には絶望だけしか残らない。このグロテクスな現実こそが、日本的経営の鈍化した姿なのだ。

 
良い状態は永遠には続きません。過去の歴史を見ても「盛者必衰」です。先進国の欧州・アメリカだって同じような道を歩んできています。経済や会社の業績が伸びなくなったのは、日本だけでは無いはずです。

しかし、欧州・アメリカで、会社に勤める人が生きづらくなっている、自殺率が増えた、うつ病が増えた、などの事象が日本ほど大きな社会問題になったことがあったのでしょうか?

詳細な調査をしたわけでは無くあくまでも感覚的にですが、欧州やアメリカの先進国の会社員の方が、生き生きとワガママに(?)生きられているように感じます。
日本のサラリーマンだけが生きづらくなっているように思えるのはナゼなのでしょうか?

 日本の会社は、社員という共同体によって構成されている。そこでの人事は、経営者や人事部が一方的に決めるのではなく「あいつは仕事ができる」という社員コミュニティの評判によっている
 
 米国型の人事制度は地位や職階で業務の分担がきまるから、競争のルールがはっきりしている。頂点を目指すのも、競争から降りるのも本人の自由だ。それに対して上司や部下や同僚たちの評判を獲得しなければ出世できない日本型の人事制度ははるかに過酷な競争を社員に強いる
この仕組みがあるからこそ、日本人はエコノミック・アニマルと呼ばれるほど必死で働いたのだ。
 
 日本的雇用は、激しい雇用規制によって制度的に支えられている。だがその代償として、日本のサラリーマンはどれほど理不尽に思えても、転勤や転属・出向の人事を断ることはできない。日本の裁判所は解雇にはきわめて慎重だがその反面、人事における会社の裁量を大幅に認めている。解雇を制限している以上、限られた社員で業務をやりくりするのは当然とされているのだ。
 
 ムラ社会的な日本企業では、常にまわりの目を気にしながら曖昧な基準で競争し、大きな成果をあげても金銭的な報酬で報われることはない。会社を辞めると再就職の道は閉ざされているから、過酷なノルマと重圧にひたすら耐えるしかない「社畜」化は日本的経営にもともと組み込まれたメカニズムなのだ。

 
「年功序列」と「終身雇用」を柱とする日本的経営が社員を幸福にするという「常識」はでたらめであり、時代に適応できなくなった日本的経営を守ろうとすることで、耐えることしか出来ない会社員・サラリーマンは疲弊していく、と橘玲さんは解いています。

僕は、まさにこの渦中にいるのだと思うのです。

深く考えることから逃げて、あまり考えずに生きてきた代償に、「やり直し」をすることが難しい会社での立場・年齢になってしまっていた、ということなのだと思います。

「原因は何となくわかったから 我慢して働くしかないっか」とは、なりません。

だって生きづらいんだもん。

どうすれば自由になれるのか、どうすれば自分の人生を楽しく生きられるか、を真剣に、したたかに考えていきたいと思います。

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ

コメント

タイトルとURLをコピーしました