僕の住んでいる田舎の話を長めに書く。
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僕は「橘玲本」が好きで、これまで20冊以上の橘玲本を読んできている。
このブログのカテゴリにも「橘玲本」があるほど。
最近は書評というか、感想文を書くことも少なくなってしまったけど、橘玲本への「愛」は変わらない。(←ちょっと気持ち悪い)
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その橘玲本の一つ。「無理ゲー社会」の第一章「『自分らしく生きる』という呪い」の中に、こんな一節がある。
ちょっと長いんだけど引用しちゃう。(橘さんゴメンなさい)
リベラル化の潮流で「自分らしく生きられる」世界が実現すると、必然的に、次の3つの変化が起きる。これらは相互に作用しあい、その影響は増幅されていく。
①世界が複雑になる
②中間共同体が解体する
③自己責任が強調されるすべての人が自分の利害を主張すれば、人間関係は絡みあってトラブルの解決が困難になり、政治は利害調整の機能を失って渋滞する。個人主義が広がれば、町内会やPTAのような中間共同体が行なっていた地域の「政治」も消失する。
日本社会を支える最後の共同体は「(イエとしての)会社」だが、年功序列・終身雇用の「日本型雇用」は機能不全を起こしており、働き方改革によってグローバルスタンダードの「お金を稼ぐ場所」へと変わりつつある。
身分制社会では、生まれたときの身分によって職業や結婚相手など、その後の人生が決まってしまう。これは極めて理不尽だが、それで不幸になったとしても個人の責任が問われることはない。(「生まれ」が悪かったのだ)。ところが「誰もが自分らしく生きられる社会」では、もはや身分のせいにすることはできず、成功も失敗もすべて自己責任になる。
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この文章で書かれていることが僕の身近で起きている。
僕の住む田舎の自治会(町内会)に変化が起きているのだ。
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以前にも書いたことがあるけど、田舎の自治会は面倒なことが多い。
よくわからない「役」をやらなければいけなかったり、
古くからの「しきたり」にある程度は従わなければいけなかったり、
「かったるい」時間を過ごさなければいけなかったり、田舎暮らしは、ゆるくて快適ですが、楽でもありませんです。
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コトの始まりは、新しく引越してきた人が「新年会をやめよう」と言ってきたことだった。
毎年、切り替えのために3月になると地域内で「新年会」をしていて、朝から乗り合いバスに乗り、近くの温泉に行って話し合いをして、昼食を食べながら宴会をしてカラオケをして、ヘベレケになってバスに乗って帰ってくる、というのがこの地域の習わしだった。(この行事が大キライだったことを上の参考記事でも書いた。)
「郷に入れば郷に従え」ということわざがあるように、(まぁそういうイベントも地域で生きていくための潤滑剤としては必要なんだろうな)と自分を納得させて参加していた。
でも、その人は「集めた予算をそんな集まりに浪費するのはヤメろ」と言いだしたのだ。
僕が住んでいる地域は、昔から代々続く農家の家が大半だったんだけど、最近は移住者が増えて、農家と非農家が半分という構成に変化してきている。
で、多数決を取ったら「新年会には行きたくない」という人が多数になり、新年会は中止になったのだ。(新型コロナが中止の後押しをしたのもある)
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この事をキッカケに、次々に事件(?)が起きるようになった。
新しく越してきた別の家の人が「子供会に参加したくない」と言い出した。
その後、別の家の人が「仕事が忙しいから地域のイベントには一切出席しない」と言い出した。
こういった事件が次々に起き、ついにその人達は自治会を脱退してしまった。
この流れは、橘玲さんが書いた「個人主義が広がれば、町内会やPTAのような中間共同体が行なっていた地域の『政治』も消失する」の部分だ。
「わがまま」が「お互いさま」を超えてきている。
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自治会を抜けるデメリットは何か?
いろいろあるけど、「近所の人との付き合いが無くなる」ということを除けば、デメリットは「ゴミが出せなくなる」ということだけだ。(と僕は思う)
地域のゴミ出し場は、自治会の中で持ち回りで清掃をしているから、自治会を抜ければゴミを出せなくなる。(たぶん)
田舎暮らしを始めて問題になるのは、この「ゴミ出し問題」が結構多いのだ。
でも、これはおかしな話で、税金を払っているのだから自治会とは関係無く行政はゴミを収集しなければいけない。
「自治会を抜けたらゴミを出せなくなったので何とかしてください」と行政に訴えれば、行政は何とかしなければならないんだろう(本来は)。
自治会と行政はつながっているから、自治会が衰退すれば行政に負担がかかる。
自治会が崩壊し、PTAが機能しなくなり、田舎の消防団も存続の危機を迎えれば、行政にしわ寄せがいくことになるのだろう。
こうして、「すべての人が自分の利害を主張すれば、人間関係は絡みあってトラブルの解決が困難になり、政治は利害調整の機能を失って渋滞する」という橘玲さんの主張がここでも証明される。
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「自己責任」の部分はどうだろう?
先ほど「『わがまま』が『お互いさま』を超えてきている」と書いたけど、そもそも自治会や町内会が出来たのは「お互いさま」が始まりだと思う。
日本が貧しい時代は、近所での助け合いが必須で、米や野菜など食べものを分け合ったり、一緒になって田んぼの水路を作ったり掃除したり、時にはお金を相互扶助し合ったり(無尽)…。
昔は、当てにならない行政による配分なんかよりも、地域の助け合いの方が大事だったのだと思う。
でも、今の時代に会社に勤めていたり、地域とは無縁の仕事をしていれば、地域で協力し合う必要なんてなく、自分の生活を支えるのは自分でしかなく、完全な自己責任に変わっている。
僕だって、仕事がゼロになってお金が無くなったとしても、近所の人に「お米と野菜を分けてください」とか「お金貸してくれませんか?」なんて絶対に言わない。
『わがまま』が『お互いさま』を超えるのは「当たり前」だとも思う。
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僕はまだ自治会(田舎の中間共同体)を脱退していない。
なぜ脱退しないのかと言えば、農家さんとの付き合いがあるからだと思う。
野菜をいただいたりするし、水路清掃を手伝ったりするのもイヤじゃない。
それに何より、近所のおばちゃんやじいちゃんと普通にニコニコ挨拶しながらの散歩を続けたい。
でも、面倒な「役」や、過度なボランティア活動を頼まれたら…、
自治会の脱退を考えちゃうかも知れない…。
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こんな田舎にも変化の流れは確実に来ている。
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